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次世代につなげる思い ~世界農業遺産の語り部として~
高校生「聞き書き」作品集

MV 次世代につなげる思い ~世界農業遺産の語り部として~
※この作品集は高校生により作られたものです
取材対象者 石田 幸人(大分県国東市)
聞き手 落合 菜緒・廣尾 和奏(大分県立宇佐高等学校 普通科)
取材日 2016年10月11日・11月13日・11月29日

名人の人となり

私の名前は石田幸人です。昭和14年7月24日生まれで今年喜寿(77歳)になりました。戦中に生まれたので、幸せな人になって欲しいという願いから幸人と名づけられたのではないかと自分では思っています。

生まれは国東町堅来(かたく)です。結婚して、今住んでいるのは国東町富来(とみく)です。小さい頃はガキ大将でしたね。6人きょうだいの5番目で、父親が3歳のときに亡くなったので父親の顔を知りません。母親と祖母に育てられました。家は農家でした。小さい頃から農業の手伝いをしたり家族の食事を作ったりしていましたね。母親は七島い(畳の材料になる大分県国東地方だけで生産されているカヤツリグサ科植物)を作って売って、私を大学に行かせてくれました。大分大学を卒業して蒲江(かまえ)の小学校に赴任して、それから小学校教員として37年間勤めました。2校で5年間、校長を務め、最後は富来小学校を退職しました。教員という職に合うとか合わないとかより、この職で一生を生きる、これでやるしかないという覚悟を決めて勤めましたね。今は、無職といったところでしょうか、退職してから、教員時代は忙しくて人に頼んで作ってもらっていた田んぼを自分で作るようになりました。大豆や菜の花なども作っています。好きな言葉は、「常に己に勝つ」という意味で「克己(こっき)」です。性格的に自分は「有言実行」のタイプかなと思っています。いろんなことを言う、しかし、言ったことには責任を持つし、言ったことは自分でやるという主義です。

村の現状

私の住む国東町富来は、少子高齢化が急激に進んでいます。65歳以上が50%以上ですね。小学校は統合されて近くに小学校がありません。朝、スクールバスで子どもたちが通学すると、夕方帰ってくるまで子どもの声が聞こえません。高齢者の独り住まい家庭が増えて、買い物や通院に困っています。主要産業は農業ですが、専業農家はごくわずかでね。それなのに、この地域はわりと荒廃地がない、荒れていない。それはね、世界農業遺産の主旨である次世代につないでいくために、富来生産組合という農業法人を作って村全体の農地を守ろうとがんばっているからです。移住者も少しずつ増えています。

富来の景色
富来の景色

富来は73戸で180人くらいの小さな集落です。だからこそできている地域のつながりがあって、小祭を今も大切にしていますね。たとえば、屋敷の中に祀った荒神様のお祭をして班の人が集まって酒を酌み交わす機会があります。地域によって言い方は違うけど、富来は「屋敷神ん祭」(やしっかんまつり)と言っています。そのほか、阿弥陀堂のお祭もあります。昔はもっと多かったのですけどね、だんだんなくなってきているのが淋しいですね。

文渓里の会の事務局長として

私は、「文渓里の会」の事務局長として活動しながら、世界農業遺産の語り部をしています。私たちの里を登りつめると「文珠山」(もんじゅさん)があります。その文珠山の谷(溪)ということで「文渓」やな。そこに3つの行政区があってね。下から富来(とみく)地区、大恩寺(だいおんじ)地区、一番上が藁蓑(わらみの)地区。今は廃校になっていますが、大恩小学校があったときに、学校をバックアップする後援会組織がありました。廃校になったときにみんなが心配したのが、その後援会のことで、いい組織だから何か代わるものを作ろうと立ち上げたのが「文渓里の会」です。今は、「文渓里の会」が中心となって、この地域の活性化というか、地域おこしに取り組んでいます。生まれた赤ちゃんから年寄りまですべての人が会員で、3つの区を合わせて400人くらいですね。

具体的な活動の1つは、世界農業遺産の啓発を兼ねて「世界農業遺産と名跡を巡るウオーキングコース」を設置したことです。春と秋の2回実施しています。先人の知恵と努力をウオーキングしながら参加者に話しています。国東半島にはため池が多いので、必ずため池を案内します。県内外からたくさんの人がウオーキングに参加してくれます。みんなで心を込めておもてなしをします。それから「農村博物館」を開館しました。各家で使っていた農機具や生活用品、民具などを集めて、旧大恩小学校に展示しています。新しい知識や技術を取り入れながら発展し、受け継がれてきた農業の歴史を少しでもわかってくれればと思っています。もう1つ、「かかし祭り」の開催です。もともとはとみくじマラソン(大分県唯一の日本陸連公認市民マラソン大会・富来港から文殊仙寺までの約10㎞を「 開運ロードとみくじ」といってゆっくりめぐってお祈りすれば幸運がやってくるという幸運スポットを走るマラソン大会)の応援のために始めたのですが、世界農業遺産認定後は、国東地方に残る農耕文化をかかしで表現し、若い人たちに受け継ごうとがんばっています。

世界農業遺産ウオーキング
世界農業遺産ウオーキング

原木しいたけをつくる ~クヌギ林の循環システム~

しいたけを育てる木をクヌギと言います。クヌギは伐採しても萌芽(ほうが)し、15年後には再び原木として利用できる大きさに再生されます。木材資源が循環しているわけです。その中にしいたけ作りという知恵を、昔の人は考えついたわけですよ。伐採された原木は、2ヶ月ぐらいおいて1~1.2メートルくらいの長さに「玉切り」します。次に原木にドリルで穴をあけて、しいたけ菌をしみこませた駒を打つ「駒打ち」です。駒を打った原木はしいたけ菌がいきわたるように伏せます。「伏せ込み」と言い、そのままふた梅雨を越させて秋にほだ場に移します。しいたけの発生に適した場所が「ほだ場」で、移した原木は「ほだ木」と言われるようになります。ほだ木にして3~4年、そのほだ場でしいたけ採取が行われます。しいたけが採れなくなると古いほだ木は捨てられ、新しいほだ木を入れていきます。毎年毎年それをやっていくから、ほだ場のほだ木は減りません。捨てられたほだ木はミネラルたっぷりの栄養分を含んだ土に返り、雨水といっしょにため池を潤します。しいたけを作りながらクヌギ林は循環しているんです。

原木しいたけを採るほだ場
原木しいたけを採るほだ場

ため池の築造と管理

世界農業遺産に認定されて、国東半島にため池が多いことが広く知られるようになりました。1200個を超えると言われます。なぜかというと、国東半島にため池が多く作られたのは、1つに気候的な条件が考えられます。国東地方は瀬戸内式気候で1年を通じて降水量が少ない、そのため水田農業にとっては厳しい自然環境だったんだね。「水」の確保への先人たちの強い思いが、ため池の築池ということにつながりました。2つ目は、両子(ふたご)山を中心にした放射状の地形です。火山灰の地質で雨がしみこみ易い、川は短く急流で、降った雨はさっと流れてよどまないので、水の確保がむずかしい。そこで、両子山系の小さな谷ごとに小さなため池をつくり、それをつなげて水を確保しようと考えました。だからため池が多いんやな。3つ目は歴史的背景です。江戸時代になって人口がだんだん増えてきます、水不足を解消するため、畑地の水田化や新田開発が行われました。また、江戸時代は藩が殖産興業に力を入れ、池の築造を奨励しました。それを機にたくさんの池が作られるようになったと考えられますね。

唐戸
唐戸

ここ富来のため池の特徴は、後で補助池が作られ2つの池がつながり、一体的に使われていることです。富来地区の池は、山の南の谷に2つが重なっています。池の水は池ごとに掘られた地下水路で北側に出し、2つの水路が合流し川に落とすしくみになっています。

他地区の池で、羽田の丘陵地に作られた2つの池は、途中に唐戸(板扉)が設置され、水門のハンドルによって水を下の池に送ったり、田んぼに送ったりしています。唐戸と唐戸の間は地下水路です。斜樋(しゃひ:池から水を取水する施設)の栓が閉まったかどうかは音で確認するしくみもあります。

斜樋での音の確認
斜樋での音の確認

各地区には「池守り」(いけもり)がいます。字のとおり池を守る人、管理する人のことです。今は区の役員扱いで、区集会で選出され、任期は2年です。昔は、毎日山を上り下りして、斜樋の栓の開け閉めをしてきたそうです。

長い間、地区の人たちが交代で池の管理をし、協力してため池を守ってきたんですよ。「水を大切にする」という強い思いで結束していたんだね。今、地区の役員が年3回池の土手の草刈をしています。池の集水路や用水路は、区民全員で掃除をします。各井堰(いせき:水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた所)組合では、田んぼの用水路の水の管理や掃除をします。今はまだため池など管理が出来ていますが、人口が減って後継者が少なくなっているので、いつまで管理ができるのか心配です。

国東のため池
国東のため池

クヌギ林とため池の農林水産循環システム

循環型の農林水産業のシステムが世界農業遺産に認定されたわけですが、1つはしいたけ栽培を行うためのクヌギ林の循環で、もう1つは、ため池がもたらす水の循環です。クヌギ林とため池は、大きく関わりあっています。廃ほだ木やクヌギの落ち葉が積もり積もった腐葉土は、保水力が強く栄養分たっぷりです。雨水といっしょにため池に流れ込んでいます。この2つの循環の輪が連携して大きな輪(循環システム)ができているんです。それが世界農業遺産認定の決め手になりました。水の循環については、ため池という入れ物に1年中の雨水を溜めておいて、必要な時に池の水を川に落とし、数個の井堰(いせき:水をよそに引いたり,水量を調節するために,川水をせき止めた所)から用水路に送り、田んぼに水を分配するしくみが基本です。田んぼに入った栄養分たっぷりの水は余って漏れます。余った水は川下へ川下へと流れていき、海近くの国道付近の田んぼまで潤します。そして、最後に余った水は海に出るわけ。その水が入ったところにプランクトンが発生して藻場(もば)が形成されます。藻場とは、藻草が生え、魚のすみかになる場所です。実際に、ところてんの材料となるテングサとか、冬になるとヒジキがたくさん採れます。この水の循環が一目でわかるようにウオーキングコースを設置しています。

ただ、20年くらい前に、人間の都合で海岸を埋め立てました。潮の流れが変わって近年は海の様子がおかしくなってきました。砂が運ばれ藻場は狭められ、国東市最大のアサリの漁場が死滅してしまいました。残念でなりません。

廃ほだ木
廃ほだ木

「世界農業遺産」の里として ~地域の変化~

自分の住んでいる地域が世界農業遺産に認定されたと聞いてから3年経ちましたが、まだ、びっくり感からさめませんね。認定される認定されないに関わらず、ため池や用水路の維持管理などはみんなでしてきていたから。「世界農業遺産に認定されたからやりましょう」じゃあないんだよね。ずっといろんなことをやってきた中で「クヌギ林とため池の循環システム」に視点が当てられ認定されたということなんです。

認定されてからまず取り組んだのは、「世界農業遺産」について知ってもらうための啓発活動です。単に「クヌギ林」や「ため池」という場所じゃないんだ、「循環システム」なんだということをわかってもらう活動です。世界農業遺産にふれながらウオーキング大会をしようと提案したとき、地区民の反応は「なぜウオーキング?」と疑問に思ったようでした。でもね、男性がウオーキングコースの草刈りや整備をしたり、女性(虹の会)が昼食に炊き込みごはんでおもてなしをしたりと、実際に多くの人が関わってくれるようになりました。変化しながら発展してきた農業の歴史を啓発・伝承しようと、旧大恩小学校に農村博物館を開館すると、世界農業遺産への関心がいっそう高まったように感じます。かかし祭にも国東で受け継がれている農耕文化を取り入れ、若い人たちに世界農業遺産を少しでも理解してもらえればと願っています。こうした啓発活動を通じて、高齢者の存在の大きさを再認識させられたね。「高齢者は知恵袋」ですよ。昔のことを教えてくれたり、かかし作りの技術を見せてくれたりと、ありがたい。今まであまり体を動かさなかった人も、行事に参加することで体を動かすようになった。かかしを作るのは大変だけど、出来上がった作品を喜び合う達成感がいいね。高齢者の活躍の場が提供できたのはメリットだと思うよ。また、世界農業遺産の啓発活動や行事を通じて、地域の人たちの結束力は強まったと思っています。もう1つ、日常の会話にも変化が見られました。世間話的な会話が多いけど、今ではため池やクヌギ林の話、世界農業遺産のことも話題にのぼるようになったと感じています。地域に変化が出てきて、啓発活動により循環システムの理解がさらに深まっていけばと思います。

村人の作ったかかし
村人の作ったかかし

後世に残すには ~3つのつなげる~

教員時代には地域の諸活動になかなか出席できなかったので、今取り組んでいる「文渓里の会」の地域おこしの活動は、教員生活37年にご恩返しのつもりです。

世界農業遺産は「つなげていく遺産」であると言われています。私はまず「次世代につなぐ」、人から人へつなぐことをやらなきゃならんと思っています。そのため、学校などから要請があればいつでも飛んでいきます。10月には国東市内の武蔵(むさし)中学校で世界農業遺産について授業をしました。私が知っていることを伝えています。世界農業遺産ウオーキングには100人くらい集まります。春はタケノコごはん、秋は栗ごはんと猪汁でおもてなしをします。地域で生産される農林水産物を「食につなげる」ことも大切、食文化の継承を通して地域の活性化が図れると思います。もう1つは、「地域につなげる」ことやな。認定地だけで世界農業遺産だと言っても始まらない。農村と都市、認定地と他地域、生産地と消費地などつなぎ方があるはず。たとえば、グリーンツーリズムは、農水山村と都市の交流に大きな役割を果たしています。乾ししいたけや七島いなどのブランド化も進められています。世界農業遺産を後世に残すために「人・食・地域」3つのつなげるが大切だと思っています。

教員だった私にこれからできる活動は、小・中・高校生に私の知っている「世界農業遺産」を伝えていくことです。世界農業遺産の語り部としてそういうことを元気な間はやっていきたいね。子どもたちが、「世界農業遺産」に認定されたふるさとを誇りに羽ばたいてくれることを願って。

Profile写真 石田 幸人

石田 幸人(いしだ ゆきと)

生年月日:昭和14年7月24日
年齢:77歳
職業:文渓里の会事務局長

略歴
小学校教員を定年退職。地域の親睦交流を図るために「文渓里の会」を設立し、かかし祭を行い、世界農業遺産啓発ウオーキングコースを設立するなど少子高齢化の地域おこしに尽力している。また、農村博物館を小学校跡に開館し、地域の農耕用道具や民具を展示。農耕文化の保存・伝承にも力を入れている。世界農業遺産を次世代につなげるために世界農業遺産の語り部としても活躍している。

取材を終えての感想

名人と高校生 集合写真
名人と高校生

1年 落合 菜緒

私は、今回世界農業遺産聞き書きの活動を初めてしました。最初の頃、上手くインタビューできるのかとても不安でした。私にこんな大きな役割ができるのだろうか、大丈夫だろうかと不安に感じました。

1回目にインタビューしたことを書き起こしてみると、多くの疑問が浮かび上がると同時に、石田さんの思いを理解することができました。2回目はウオーキングに参加しました。石田さんの活動を目の当たりにして正直、石田さんが活動している「文渓里の会」はすごいと感動しました。村おこしをするために様々なとりくみをしていたのです。石田さんが忙しい中でも何度も私のことを気にかけてくださり、不安だった気持ちが自然と無くなりました。3回目は、より的確に質問できました。石田さんの「世界農業遺産を次世代につなげたい」という強い思いを肌で感じることができてとてもうれしかったです。言葉のひとつひとつが心に響きました。国東の地名を知らなくて、地図を見ながら書き起こし、作品を仕上げたときの達成感は忘れません。この作品を富来の人たちに も読んでもらって、今までよりもさらに自分たちの村に関心を持ち、誇りを持ってもらえるとうれしいです。もちろん富来以外の多くの人にも読んでもらって、世界農業遺産の村に興味を持って訪ねてくれることを願っています。インタビューのとき、やさしく接してくださってわかりやすく教えてくださった石田さん、本当にありがとうございました。このような機会を与えてくださったことに感謝します。

1年 廣尾 和奏

今回、初めて世界農業遺産聞き書きの活動に参加させていただきました。最初、私は世界農業遺産のこともよく知らなくて、「聞き書き」の活動がどんなことかもわからず、初めて会う石田さんにうまく聞けるか不安でした。しかし、石田さんはとても優しくて、私たちが質問したことについて詳しく教えてくださり、緊張が和らぎました。取材をしているときは聞くことに精一杯でしたが、テープを文書に書き起こしたことで石田さんの思いがじわじわ伝わってきました。石田さんはたくさんの活動をしていて本当にすごい人だと思いました。取材のときにウオーキングコースに連れて行っていただいたのですが、普段行かないと所で、世界農業遺産を目の当たりにして興奮したし、とても楽しかったです。私が感じた、石田さんの地域を思う気持ち、世界農業遺産を次世代に伝えたいという熱い思いを、この作品を読んだ方にも感じていただきたいし、世界農業遺産の村『富来』に興味を持ってもらえたらと思います。

この聞き書きと言う活動では、普段の高校生活では経験できないこと経験できました。今まで知らなかったことを教えていただき、幅広い知識を得ることができました。本当に楽しかったし、貴重な体験が出来ました。聞き書きに関わっている方々、そして、石田さん、本当にありがとうございました。

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