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「山と共に」 ~世界農業遺産の郷で椎茸栽培一筋に生きる~
高校生「聞き書き」作品集

MV 「山と共に」 ~世界農業遺産の郷で椎茸栽培一筋に生きる~
※この作品集は高校生により作られたものです
取材対象者 清原 米蔵(大分県国東市)
聞き手 森江 舞・花木 希衣(大分県立国東高等学校2年)
取材日 2014年11月12日・12月26日

「吉弘楽」の郷で山に囲まれて

名前は清原米蔵(きよはらよねぞう)と申します。歳は67になるなあ。米蔵という名前の由来は父から聞いちょるのが、蔵は貯まったものを置くところで、その蔵にたくさんお米とかを詰められるように、たくさんお米ができるように、そういう願いが込められているふうなことじゃなあ。

国東市の武蔵町の山ん中で、昭和22年2月28日に生まれたんじゃ。小さい時はじいちゃんと両親、それと兄弟3人暮らしで、山ん中が遊び場じゃったなあ。今は、90歳になる母親と妻と3人で暮らしちょる。子どもは息子と娘2人おっちょるんで。息子は、大分市で働いて、娘は東京に行っちしもうたが、孫がそれぞれ3人ずつ6人もおり、盆・正月に帰ってくるのが楽しみじゃなあ。

小さい時から山が好きじゃった。自然薯掘りをしたりアケビを食べたり、木登りや木の上にすみか(小屋)を造ったりもしよったな。チャンバラや石垣の上から飛び降りる競争もしたなあ。それから、川で魚釣りもしたなあ。今はもう川の魚はあんまり食べんけど、おかずとして食べよったなあ。正式な名前は知らんけど、ドンコっちいう魚とか、ホンバエに似たようなヤマトバエっち言うんかな、そういう魚がおっちょったな。釣って天ぷらとか、焼いて食べよったな。魚釣るのも料理するのも楽しみやったな。

この地域にはな、毎年7月の第4日曜日に行われる国指定重要無形民俗文化財に指定されちょる「吉弘楽」と言うお祭りがあるんよ。これはな、南北朝の時代に初代領主であった吉弘正賢(しょうけん)が、戦勝祈願し、地域住民が平和に暮らせるように、五穀豊穣を願って「吉弘楽」を舞ったんやなあ。その後、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」に出るじゃろうかっち期待しちょるんじゃけども。吉弘家11代目の吉弘統幸(むねゆき)という人もこの祭りに関わりがあるんよ。それが300年前から受け継がれちょるんじゃなあ。祭りは楽庭(がくにわ)八幡社でするんじゃけど、格好は兜・烏帽子・陣笠などを被り、旗を背中に挿した戦国時代のいでたちに太鼓を胸からつるし、あまり耳にしないような音に合わせて念仏を唱えながら、勇壮な踊りを舞うんよ。私も踊りよったんでえ。今は、吉弘楽保存会の会長をしちょるけど、それを自分らの時代で終わらせるわけにはいかんなあ。近頃は、若いもんが少なくなっちしもうて、「吉弘楽」を伝えていくのも、山を守っていくのも大変じゃけど、体の動く限り頑張ろうと思うちょるんで。

椎茸に魅せられて

昭和40年に国東農業高校卒業と同時に、農業を始めたんかな。まあ、その当時国東半島は国営のパイロット事業で山々は開墾され、温州みかんの栽培農業が奨励されよったんよ。直ぐ下にもオレンジロードもでき、みかんブームじゃったなあ。最初は温州みかんの栽培をやるか父の時代から作っちょった椎茸栽培をするか少し悩んだけど、やっぱり山が好きやから椎茸栽培を選んで、先祖代々の水田を守ることに決め、その後少しずつ面積を拡大しながら現在のようになったんじゃ。

ところで、乾椎茸の作り方はな、まず椎茸を発生させるのにクヌギの木があってな。10月とか11月頃に山に黄色から茶色に変色する落葉樹なんじゃけども。クヌギの木が一番発生が良いちゆうかな、多く発生するんじゃ。

最初になあ、13年から18年ぐらい成長したクヌギの木を伐採するんじゃ。伐採する時期は、紅葉した頃で11月の月末ごろまで伐採し終わらんと悪いんじゃな。成長しないように木を殺すんやな。根元から切ってバサっと倒すんや。なぜこの時期に伐採するかっちいうと、椎茸菌を行き渡させるのに大事な物質の糖分が、一番クヌギの原木内に蓄えられている時なんじゃなあ。伐り倒した原木は長いもので10mくらいあるなあ。それを1か月くらいしてから、1m20cmくらいに小さく切る「玉切り」という作業するわけじゃな。

それからな、1~2月頃に「駒打ち」という作業をするんよ。「駒打ち」ちゅうのはな、玉切った原木に電気ドリルで穴を開け、椎茸菌のついた「種駒」っち言うんじゃけど、それを打ち込む作業なんじゃ。

「駒打ち」作業した原木を積み重ねて最後にクヌギの枝を上にかぶせて、風通しがよく、直接日光が当たらないように「伏せ込み」という作業をし、2年間伐採した山で寝かせるんよな。こん間にな熟成っちゆうかな、菌が原木じゅうに行き渡るんじゃなあ。それから、原木を10月頃から、「ホダ場」っていう椎茸を発生させるところに持ってきて、椎茸がたくさん発生して収穫作業し易いように組んで行くんで。この作業が重労働で、年寄りには大変なんじゃ。原木が粉々になるまで椎茸は収穫出来るんじゃよ。椎茸を収穫した後は、乾燥器で乾燥させ「乾椎茸」として販売するんやな。

自然との知恵比べ

椎茸の乾燥は、昔と違って、熱風を送り込む機械があって、だいたい24時間で乾燥できる。水分と温度の調整が大切で、収穫した椎茸の水分量によって温度・風・送風、それから排気・吸気そのバランスが一番難しいところなんじゃけども。言葉では言えない難しさがあるなあ。もう今は理想の乾燥技術が研究されて、そういう機械が出来ているんよ。現代は科学が発達した時代なんじゃけれども、まあ、自然が相手の農業は天候の関係でどうしてもどうにもならない年があるなあ。なぜかっち言うと、椎茸を発生させるためには椎茸菌を、クヌギの原木に行き渡らせんといけんのやけども、その年の天候に大きく左右されるからじゃなあ。まあ、椎茸の発生する原木を最高の「ホダ木」にするために、それが一番気を使うところなんやけど、一番難しいところじゃなあ。雨の多いときは、風通しを良くし、高温にも弱いから高温障害にならんようにせんと悪いなあ。地面からの高さによって湿度がものすごく違うんやな。ほやから、下に置いたら水分が多すぎて良くない、あまり高く置いても乾燥して良くない。なかなか難しい、そういうところに細心の注意をして作業しておるんよ。

夏はクヌギの木の手入れ、秋はクヌギの木を伐採し「ホダ場」へ運搬する、冬も色々な一連の作業があり、春は収穫や乾燥で、てんてこ舞いじゃなあ。まあ、椎茸は5年で発生するけども、それまでに15年という長い期間、クヌギの原木の手入れがあり、大変な作業がたくさんあるなあ。

綺麗に整備された「ホダ場」
綺麗に整備された「ホダ場」

椎茸料理はたまらんな

椎茸の料理はいろいろあるけど、みんな美味しくてたまらんなあ。最近は「椎茸ステーキ」ちゅうのが、なかなか美味しいなあ。「乾椎茸」を水で戻して、それをフライパンでバターと塩コショウで焼いて食べるんやなあ。料理も簡単なんで是非食べてみたら良いなあ。椎茸は生より乾した方が、栄養価が高くなるそうやなあ。「乾椎茸」にするのは保存以外にも目的があるんじゃなあ。それから、「キノコカレー」。大食い芸人のギャル曽根が二番目に美味しいっち言っちくれたんやな。それと、「椎茸どんぶり」に椎茸が入っちょん。「パスタ料理」とか。何にでも合うなあ。色々と美味しい料理を考えて椎茸をいっぱい食べてもらいたいなあ。

作業の合間に記念撮影
作業の合間に記念撮影

「大分しいたけ源兵衛塾」の師として

「源兵衛塾」というのはな、今の津久見市に大分県のしいたけ栽培の開祖と言われている人がおったんやな。その人の名前が、「源兵衛」という人でその名前をもらって、「大分しいたけ源兵衛塾」と名付けて椎茸の勉強する会を設けたんよ。

国東半島のような大分県の農山村は、今まで椎茸栽培をすることでの経済を支えてきたんよ。じゃけどな、近頃は中国などから外国産の乾椎茸が大量に入ってくるようになっち市場価格が低迷し、生産者も高齢化し、おまけに後継者はおらん。椎茸生産を取り巻く状況は極めて厳しくなっちしもうたんや。こんな状況を克服し、日本一の乾椎茸の生産量を誇る大分の伝統ある椎茸産業がさらに振興するように、生産者の経営意識や生産技術の向上や伝承・地域リーダーの養成を目的に平成14年に始まった研修会なんじゃ。

1期は2年間で年間約5回の研修会をしよるんよ。今年は5期目で述べ300人近い人が勉強したんかな。私もそこの技術アドバイザーとして活動しよるんよ。大分県の椎茸を指導する部署の先生方が色々教えてくれたり、現場に研修に行ったり、県外まで研修に行ったりもするなあ。まあ、そういう勉強の会なんじゃな。技術アドバイザーといっても、自分の今までやってきたことを話すくらいかな。こっちも勉強になるなあ。自分の経験を取り入れる生産者が一人でも多くいると良いなあっち言うような思いでやっちょります。

クヌギ林とため池がつなぐ「世界農業遺産」

世界農業遺産に認定されたのは、平成25年の夏になる前の頃じゃったかなあ。自分がやっていることが世界農業遺産に繋がって、一言で言えば良かったなあ、そういう思いがあるわな。まあそれと、なかなか今の時代では、椎茸栽培などの農業は、一般の人にあんまり評価されていない分野やと思ってきたんじゃけども、自分のやってきたことがなんかこう認められたっちゆうか、自分のやってきたことも無駄じゃなかったんじゃなっち言うような気持ちになったなあ。まあ、今の便利で綺麗になった世の中で、農業は一番皆が嫌がり、関心のない分野じゃからなあ。少しでも注目されるようになったら嬉しいなあ。

世界遺産のパンフレットにも、この地域のクヌギ林やため池の写真が使われちょるんでえ。池の名前は、松ヶ(まつが)迫(さこ)池(いけ)と高地(こうち)池(いけ)っちいう2つの名前がある池なんじゃ。池の周りは、クヌギ林の豊かな自然に囲まれており、降った雨は、広葉が堆積し栄養分を豊富に含んだ森の恵みをたっぷり含んだ土壌にしみ込み、それからため池に流れ込むんじゃな。じゃから、ここら辺の水田は、ため池の水を利用するのでお米はおいしんじゃなあ。評判が良いんじゃなあ。

作業の合間に記念撮影
クヌギ林とため池(松ケ迫池)

しかしなあ、この世界農業遺産に認定された「しいたけの故郷」を未来に継承せんとならんわけじゃが、ちょっと心配じゃなあ。椎茸栽培は重労働で大変じゃ、後継者がおらん。クヌギ林やため池を、地域で管理しているけど、人が減ってしまって地域だけでは管理できなくなる日が直ぐに来るように思うんじゃな。もっと地域を広げて、市とか県そして国が管理するようにならんと現状の維持は厳しいなあ。しかし、世界農業遺産の場合、現状は変わって良いそうじゃな。まあ、椎茸生産は止めても何かの形でそのクヌギやため池を管理しよけば、それで良いそうじゃなあ。ほやから、人が減るから、このままっちいうのは厳しい時期が来ると思うなあ。そこで、その今の現状っちいうかな、そのクヌギ山とため池をどう管理するかっちいうことかな。なんか良いことを見つけ出せばいいんじゃけども、今のままでは、ちょっと先細りっちいうことは避けられんじゃろうなあ。まあ、それはやっぱり心配しちょんなあ。ほやから、この山間部でしっかりした生活できれば、今のままの生活や椎茸が生産できると思うけど問題はそこのところじゃなあ。ほやから、皆さんが椎茸をたくさん食べてくれんとなあ。

後継者への思い

うちの後継者のことも皆さんから聞かれるんじゃなあ。大分市の会社で働いている息子がおるんじゃが、子供も非常に心配はしておってなあ、いつ帰ろうかっち言ってくれるんじゃがなあ。今は状況が厳しいからなあ、なかなか親としては帰れっちいうこと言えんのじゃなあ。本当は子供が継いでくれるのが一番いいんじゃけども、今ほかの仕事で頑張りよるからなあ。いつ帰ってきても良いようにしとこうとは思っちょるなあ。仮に子供が帰れなくなったら、自分もせっかく頑張って椎茸栽培を広げてきたからな、出来なくなったら止めてしまうのも考えもんじゃしなあ。本当に椎茸栽培で頑張って地域を守ってくれる人がおれば、譲っても良いなと思うこともあるんじゃなあ。そんな後継者の作り方も一つの考えかなあと、最近そう思うことがあるなあ。私は今67歳やけども、まあちょこっと5年くらい出来るかなあ。頑張りながら、今のうちに若い者に自分の知恵や技術、そして経験を伝えていきたいなあ。

故郷への想い

最近、日本文化や日本食は、外国人の方がものすごく評価しちょるようじゃなあ。それを日本人も早く気付いてくれると良いけどなあ。田舎のこんなところで生活するっちいうのは本当に良いと思うなあ。効率・無駄事を全て無くす、効率を良くするっちゅうのは、そうじゃなあ経営では必要じゃけど、人間生活はその効率の良くない非効率な無駄の中に、なんか人間性、人間的なところがあるっちゅうことを言う人もおっちょんなあ。それが、残っちょんのは農業だけやなあ、効率の悪いことをしよんのはなあ。その中に人間性、人間的に良いところがなんかあるという人もおっちょんごとあるなあ。まあ、それが若い人は嫌いなんじゃろうなあ。結局、そういう思いは、私の人間性と合うちょったんかなあ。すべてが面白い、楽しいちいうんかなあ。いいなあ、この仕事が向いちょんのかなあ。クヌギの伐採、原木の伐採も好きじゃなあ。重くて1人じゃできんなあ。地域の人に手伝ってもらいながらしよるんで。毎年、原木を運ぶ時期になれば、持つのは大変じゃけど、歳を重ねるごとに今年も持てたっちいうことで、あー良かったあっちゆうのもあるなあ。ほやから、自分の体力の確認もできるんじゃなあ。

この地域の人も毎年歳をとっていくばっかりで、子供も少なくなってしまって、本当にこれからどうなるか心配じゃなあ。「世界農業遺産」に認定されたことで、国東の知名度も上がり「故郷の素晴らしさ」を特に若い人たちが分かって、生活してくれるようになると良いなあ。

思いを語る米蔵さん
思いを語る米蔵さん

清原 米蔵(きよはら よねぞう)

生年月日:昭和22年2月28日
年齢:67歳
職業:農林業

略歴
昭和40年3月に大分県立国東農業高校を卒業と同時に家業である農林業に従事する。その後、49年間にわたり椎茸栽培の研究を積み重ね、生産規模の拡大を図るとともに、散水施設等を積極的に導入し高品質な乾椎茸を年間約5トン安定的に生産している。また、「大分しいたけ源兵塾」の技術アドバイザーとして、栽培技術を若手生産者へ伝授するなど県内の乾椎茸生産者技術の向上に多大な貢献を果たしている。
さらに、国指定重要無形民俗文化財に指定されている「吉弘楽」の保存会会長として、伝承文化の継承に尽力している。
平成26年度第46回大分県農業賞特別賞を妻久子さんと共に受賞する。

取材を終えての感想

2年 森 江舞

世界農業遺産についての聞き書きに参加して、私は2回、椎茸農家の清原さんへ取材に行きました。取材に行く前までは、椎茸が木からできる程度のことしかわかっていませんでした。しかし、清原さんに取材し一緒に作業をさせてもらえたことで、少しだけ深く椎茸についてわかるようになりました。最初の取材では緊張でなかなかうまく取材をすることができませんでしたが、2回目の取材では少しの慣れもあって1回目のときよりもできたかなと思います。2回目の取材では作業場へお邪魔し、椎茸を収穫し世界農業遺産のパンフレットなどに出ている池を実際に見ることもできました。急斜面の作業場だったので慎重に安全に作業をしているのが、よくわかりました。清原さんから頂いた椎茸は本当に美味しくて、これからもたくさん食べようと思いました。清原さんの想いにもあるように、多くの人が椎茸の美味しさや田舎の暮らしの良さに気づいて、もっと椎茸を食べてくれると良いなと思います。本当に良い経験ができました。

2年 花木 希衣

私は今回初めて聞き書きというものに参加して、なにもかもが初めてでとても貴重な体験ができたと思います。最初に、取材する質問を考え、機材の使い方などを学び、実際に取材し、まとめました。1回目に取材に行った時は、ご自宅で自分たちが考えた質問に答えて頂きました。2回目の取材では、実際に山に連れて行ってもらい、1回目に聞き逃したことや、追加の質問に答えて頂き、名人の奥さんと椎茸の収穫とホダ木の選別の作業をお手伝いさせて頂きました。椎茸の収穫は、普段見るよりも大きい椎茸がたくさんありました。ホダ木の選別は、菌が木についているか、木の太さなどを確認しながら選びました。それでも太かったり、細すぎたりと、間違えることが多く、見分けるのも大変だなと思いました。実際に山に行ってみて、椎茸以外のところでも木が普段見る木よりも大きく、椎茸を栽培しているところは斜面が急でびっくりしました。今回の体験を通していろいろなことを学びました。良い体験になったと思いました。

ホダ場の前で記念撮影
ホダ場の前で記念撮影

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